INTRODUCTION

<わたしの大切な大切なあなたへ…>
日本の朝鮮統治、第二次世界大戦、南北分断、朝鮮戦争、
激動の歴史に引き裂かれた韓国人と日本人の70年にわたる一途な愛と信頼の物語。

第二次世界大戦のさなか、三井財閥企業の役員を父に持つ令嬢・山本方子は日本の美術学校で出会った朝鮮からの留学生イ・ジュンソプと恋に落ちる。空襲が激化し戦況が最終局面を迎えた1945年、方子は命がけで海を渡り、故郷に戻ったジュンソプのもとへ嫁いでいった。幸せな時を過ごしたのもつかの間、日本の敗戦後に勃発した朝鮮戦争の戦火と貧困に追われ、再び日本と朝鮮の地で離れ離れに。それでもふたりの愛は失われず、唯一の通信手段だった手紙は200通以上に及んだ。

アジアの芸術家として初めてニューヨーク近代美術館〈MoMA〉に作品が収蔵され、遺された絵画は今や億の値がつく画家、イ・ジュンソプ。韓国では知らない者はいないジュンソプは、生前キャンバスも買えないほど貧しく、39歳で息を引き取った。彼が最後に会いたいと願ったのは、日本人の妻・方子だった。

監督は、『台湾人生』『台湾アイデンティティー』で台湾の「日本語世代」の取材を通して日本と台湾の解けない関係性を描き出し、ロングラン・ヒットを記録した酒井充子。最新作では、悪化の一途をたどる日韓関係を、一組の夫婦を通して見つめ直す。国家の対立が先鋭化した時代に、民族や政治、思想を乗り越えて信頼を築いたふたりの人生が私たちに問いかけることとは――。

【イ・ジュンソプと山本方子を通してみる日本・韓国近現代史】

※下線はイ・ジュンソプと山本方子の出来事

1875年(明治8年) 江華島事件で日朝が武力衝突
1876年(明治9年) 朝鮮開国。鎖国状態にあった朝鮮は、日朝修好条規(不平等条約)を受け入れ開国する。
1894年(明治27年) 日清戦争始まる。
1895年(明治28年) 閔妃暗殺
1904年(明治37年) 日露戦争始まる 。
日本は朝鮮に日韓議定書を調印させ、駐留権と内政干渉権を認めさせる。
1909年(明治42年) 初代韓国統監・伊藤博文がハルビン駅で安重根に暗殺される
1910年(明治43年) 日韓併合条約に調印。日本の朝鮮統治時代の始まり。
1914年(大正3年) 第一次世界大戦勃発
1915年(大正4年) 日本が対華21カ条要求を出す。
1916年(大正5年) 日本の植民地時代の朝鮮・平安南道でイ・ジュンソプが生まれる。
1919年(大正8年) 本格的抗日運動「3.1独立運動」が起きる。
1920年(大正9年) イ・ジュンソプの父親が死去。絵に没頭するようになる。
梨本宮方子女王が李王朝に嫁ぐ。
1921年(大正10年) 神戸で山本方子が生まれる。三井財閥企業の役員を父に母と兄、姉妹の5人家族。父の転勤に伴い東京へ転居。
1923年(大正12年) 関東大震災。死亡、行方不明、負傷者およそ14万、全壊建物およそ12万棟、全焼建物およそ44万という未曾有の大災害だった。
1931年(昭和6年) 満州事変
1932年(昭和7年) 満州国の建国を宣言、5・15事件で犬養首相暗殺
1936年(昭和11年) イ・ジュンソプ東京の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)入学。
2・26事件が起きる
1937年(昭和12年) 日中戦争が始まる
イ・ジュンソプ、与謝野晶子らが創設した文化学院美術部へ移る。
1938年(昭和13年) 国家総動員法施行
1939年(昭和14年) 山本方子は府立第三高等女学校(現都立駒場高校)を卒業後、文化学院美術部で洋画とフランス語を学ぶ。その頃、2年先輩のイ・ジュンソプと出会う。
1940年(昭和15年) 日独伊3国同盟に調印。
創氏改名始まる。
1941年 (昭和16年) 太平洋戦争勃発
1943年(昭和18年) ソウルで開かれた第3回新美術家協会展に出品するためにイ・ジュンソプは帰国するが、太平洋戦争が激しさを増したため日本に戻れなくなる。
1945年(昭和20年) 3月10日、東京大空襲。
山本方子は単身、危険をおして朝鮮に渡りイ・ジュンソプと結婚。元山(ウォンサン)で暮らす。
広島に原爆投下。ソ連が対日宣戦を通告。長崎に原爆投下。終戦。
1946年(昭和21年) イ・ジュンソプと方子の間に第一子が生まれるがジフテリアで死亡。
1948年(昭和23年) ふたりの間に泰賢が誕生。
1948年(昭和23年) 李承晩初代大統領に就任。8月15日、大韓民国、建国される
9月9日 朝鮮民主主義人民共和国、建国される
済州島4・3事件起きる
1949年(昭和24年) 泰成が誕生。
1950年(昭和25年) 6月、朝鮮戦争が起きる。
1950年(昭和25年) 家族は船で釜山へ避難する。しばらく釜山の難民収容所で暮らす。
1951年(昭和26年) 家族は済州島の西帰浦(ソギポ)に移り住む。
1952年(昭和27年) サンフランシスコ講和条約締結
李承晩ラインを宣言
方子と子供たちが栄養不良に陥り、健康上の問題から日本行きの船に乗せる。韓国に残ったイ・ジュンソプは、家族宛に自筆絵葉書や絵を添えた手紙を書くようになる。
1953年(昭和28年) 7月、朝鮮戦争休戦。板門店で休戦協定が調印され、現在の軍事境界線が敷かれる。
友人や方子の母親の尽力で日本での特別滞在許可を得てイ・ジュンソプは1週間足らず日本に滞在する。これが家族との最後の別れとなる。
1954年(昭和29年) イ・ジュンソプは帰国後、統営、晋州などで風景画を中心に創作活動に専心。方子は洋裁の手伝いや保険外交の仕事をしながら子供を育てる。
1955年(昭和30年) イ・ジュンソプはソウルで個展を開催。好評を博すも出展した銀紙画を春画とみなした当局から撤去命令がでる。この頃から栄養不良、拒食症等で衰弱。しばらく入院するが退院後は飲酒量が以前より増す。
1956年(昭和31年) 肝臓障害から飲食を拒み、友人たちがイ・ジュンソプを清涼里脳病院に入院させる。退院後、赤十字病院に移る。9月6日、誰にも看取られず息を引き取る。39歳だった。方子は夫の死を電報で知る。
1961年(昭和36年) 朴正煕が軍事クーデターにより政権を奪取
1963年(昭和38年) 朴正煕が大統領に就任
1965年(昭和40年) 日韓基本条約により国交正常化
ベトナム戦争にアメリカ合衆国の承諾を得て参戦
1972年(昭和47年) ソウル現代画廊で遺作展が開催され、作品集が出版される。
1973年(昭和48年) 新聞連載を経て、イ・ジュンソプの評伝が出版される。
1975年(昭和50年) イ・ジュンソプの半生が映画化される。「李仲變」が上映される。
1978年(昭和53年) 勳章が授与される。
1986年(昭和61年) 没後30年記念事業のイ・ジュンソプ展に山本方子が招かれる。
山本方子は現在、泰成家族らと世田谷区三宿で暮らす。泰賢も目黒区に在住。

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